神奈川の歴史

神奈川県の歴史のお話しをひもといてみます。

◎ 現「大磯」が関東地方(武蔵国など)の始点であった^0^/


現在の大磯町高麗にある「高来神社(高麗神社)」は、
未開地の関東地方だった頃の、関東地方の歴史の始点と なった場所と言われています。

神奈川は「相模国」ですが、まだ東海道もない頃
高麗人が船で渡来していた場所が、大磯と言われています。
大磯あたりが、関東地方の歴史の始まりだったのですね^^


◎ 相模国府はどこにあった?


相模国は、現在の神奈川県とほぼ一致していると いわれています。
国分寺跡は、現・海老名市にあるので、 奈良時代における相模国府は、
海老名市にあったのだろうと 推定されています。


◎ 神奈川の由来


そして、「神奈川」という地名の由来ですが、 これもいくつかある様ですが、
「神奈川」は、「武蔵国神奈河郷」(鶴岡八幡宮文書に残っている) の中でみられるのが、
現在最も古いものだそうです。

1) 帷子川(かたびらがわ)(=金川、狩野川)→神奈川説
2) 金目川(金メ川)=韓川(からかわ)→神奈川説
3)上無川(かみなしかわ)→金川(日本武尊・やまとたけるのみこと)
4) その他、地形から見た説
→神奈川(源頼朝命名)説

上記は、興味がある方は、更にそれぞれ調べてみられると
面白いかもしれません。文明は世界も日本も川の傍から発達ですね^^
ここでは、2)の「金目川説」の続きを少し書いてみましょう。

今でも神奈川県に住む韓国人の比率は、全国一だという事です。
韓人=韓国人ではないようですが、その傾向は同じかもしれません。
韓人=秦氏だった、といわれる証拠が多く残っている様です。

金目川(韓メ川)上流にある町が「秦野」です。その辺からも
韓人=秦氏だったのではないかといわれる由縁です。
秦野は、足柄峠経由だった頃の東海道では、旅人が関東(神奈川)に来て、
最初に休む宿泊地だった所で、秦野を流れる「金目川」の事を
当時の人たちは、地名と勘違いしたのではないか、という事ですね。

箱根経由の東海道が出来たのが、江戸時代ということから、
神奈川宿が出来たのも江戸時代という事(鎌倉時代は御殿場周り)。
その頃には、既に古くなっていた、足柄峠経由の東海道時代での

「金目川」の事が当時も、もちろん記憶されており、
神奈川宿という名前になったのではないだろうか、多く書かれています。

結果この2の説は、「韓メ川」→「金目川」→「神奈川」という変遷を経て、
坂東の最初の国であった「神奈川」をいう地名になったのではないか、という事です。
韓川説=神奈川ですね^^

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高来神社(たかくじんじゃ)=高麗神社


高来神社は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。
高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。 社名は一説によると、
朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に 由来るすると言われている。

高来神社鳥居、後ろの山が高麗山
秦氏

◎ご祭神: 神皇産霊尊(カミムスヒのカミ)、天津彦穂邇邇芸命(ニニギノミコト) 応神天皇、神功(宮)皇后

◎由緒:中性の戦乱などで書物が消失した為、起源は定かではないが
神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かつては、高麗山の山頂に上宮があり、高麗権現社と言い、
右の峰に 白山権現、左の峰に毘沙門天を観請して、「高麗三社権現」と称していた。

また、古来より武門の信仰が厚く、鎌倉期に源頼朝が正室、北条政子の安産祈願をして
戦国時代には、後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献が残っているという。
現在山頂の上宮はすたれ、山麓の下宮が中心になっているが、
「筥根山(はこねやま)縁起」(鎌倉期)によると、 「神宮皇后が三韓を平定」した後、
百済明神・新羅明神・ 高麗大神を招来したが、そのうち、高麗大神は、大磯に
観請したとあるという。別当の高麗寺は、鶏足山雲上院と 称したが、
明治維新で高麗寺は廃寺となった。 (ウィキペデイア他参照)

◎ 山神輿:この祭りは、元々は高麗寺の本尊である「千手観音」の祭りとして360年まえ
から始められたという。明治政府の神仏分離により、高麗寺が廃寺になった為、
現在では、 高来神社の春祭りとして行われている。

祭りは4月の第3金曜から3日間。初日の午後6時から、山神輿が行われる。
これは高来神 社の神霊を神輿に移し、麓から山頂の上宮まで、神輿を担ぎ上げるというもの。
観音の祭りに大勢の人が集まるので、地上の戯れを避けて山頂の社に仮宿するのだといわれ
ている。そして、神輿は祭りが終わった3日目に、再び山を下る。

◎ 基礎情報: 所在地:大磯町高麗2-9-47 行き方:JR大磯駅から徒歩25分、
またはバス4分(平43,47,48系統「花水」下車徒歩2分」

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秦氏(はたうじ)


◎秦氏は、古代の氏族。東漢氏(やまとのあやうじ) などと並び、有力な渡来系氏族である。
「新撰姓氏録」によると、秦の始皇帝の後裔(こうえい)、 弓月君(ゆつきのきみ)とされるが、
中国系ではなく、 新羅系の渡来人であり、その時期も5世紀以降と創造される。
ハタは、朝鮮語で「海」を意味する「バダ」に由来するとも言われる。
山背(やましろ)国(現・京都府南部)を拠点とし、秦氏とその支配下の
分布は日本全国に見られ、膨大な数になる。
朝廷の蔵を管理し、大和王権の財政を司る一方で、新羅系の技術者を擁して
鋳鋼・木工などの各種格技術の主導権を握り、鉱山の開発、灌漑(かんがい)、
土木事業などを推進して、殖産氏族としての活動が顕著である。

政治的にはとりわけ目だった動きはないが、欽明天皇の側近であった、秦大津父(はたのおおつち)、
厩戸皇子(うまやどのみこ)=聖徳太子に仕えた、秦河勝の存在は、秦氏がその豊かな経済力と
財政手腕によって大和王権内に力を保持した事を示唆している。

◎秦氏のルーツを示していると言われる、金目川沿いの「金目神社」の中に、
歓喜堂という大聖歓喜自 在天がある、これは、秘仏なので、観る事は出来ないが、
「2人(匹?)の象の頭を持った人間が、お 互いに抱きしめている姿」で表現されているという。
インドに伝わる大聖歓喜自在天が、金目神社にある、という事は、 大磯に上陸したとされる秦氏が、
インドから来ているのではないか、と 思われることである。

一般には、大磯にある高麗(高来)神社の名前から、秦氏は高麗(南朝鮮)から
来たとされるが、実はインド→高麗(南朝鮮)→日本へと来た可能性が高い。
秦氏の末裔として有名なのは、雅楽を世襲してきた東儀家です。
なんと、1300年以上もの間で す!!!これは、秦氏との関係を推察されます。
他にも、京都の太秦・広隆寺,三柱鳥居の木島神社との関係、広隆寺とモーゼの十戒との酷似など、
秦氏は、ユダヤ教、原子キリスト教、などに関係があったと思われます。

こうしてみると、実に表面では分からない奥に秘められた真実があり、
皆繋がっている感じですね^^
神奈川の歴史から秦氏、高麗、キリスト教などとも繋がって
調べていくと、日本の真のルーツも見えてくる様な気がします^^


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